加藤のコラム第16号
自閉症のピースはだれにでもあるんだけど
自閉症は「スペクトラム」で語られることが多くなりました。スペクトラムって「あいまいな境界を持ちながら連続していること」という意味ですが、いろいろな状態像の自閉症の方がいて、その境界を明確に線引きするのは難しいというか、さほど意味を持たないというか。自閉症あるあるみたいな行動をどれだけ持っているのか、それがどう組み合わさっているのか、そして周囲の環境との相互作用が加わって、その人の自閉症らしさが表出されるとボクは整理しております。
でも、スペクトラムって、別に自閉症の方だけが連続体ということでもなく、自閉症ではないとされる方とも連続しているというとらえも当然できます。自閉症あるあるみたいな行動って、だれでもそれなりに持っていると思うのですが(この自閉症あるあるを自閉症ピースと呼ぶ人もいます。ボクもその一人です)、じゃあ、自閉症と非自閉症の分岐点って何なの?という話になりますよね。スペクトラムだから、境界はあいまいなんですけれど、そのピースを捨てられるかどうかなのかなとボク自身は考えています。
たとえばの話ですが、ボクは基本的に、ごはんにかける類のものは、まずそれだけを食します。ごはんといっしょに食べたいなと思ったときは、ごはんにかけるのではなく、納豆ならパックに、カレーなら鍋にごはんをつっこんで食べます。けっこう多くの人からひかれます。でも、ボクの特性のひとつに「ごはんからはみ出るのが苦手」というのがあり、その特性に自ら配慮した行動です。もちろん、カレー鍋はあとはボクだけが食べるという状況まで待ってからごはんをつっこみます。しかも自分で洗うし、だれからも文句を言われる筋合いはないと自負しております。
この妙ちくりんに見える行動、人の家ではやらないです(やりたいけど、一般的な食べ方で振る舞います)。つまり、ボクはこのこだわりピースを捨てているんです。捨てることができたから、非自閉症のような顔をしてのほほんと生きているわけです。捨てた方が生きやすさという点では楽だから。
捨てた方が楽なピースかもしれないのに、捨てずに筋を通しているのが自閉症。捨ててしまうのと捨てずに持ち続けているのとどっちが人としての義があるかといったら、答えは明白ですね。
ちなみに、ボクは喫煙者ですが、タバコを吸い始めてからやめたことは一度もありません。ある意味高額納税者として国に貢献しています。しかし、昨今喫煙者は肩身が狭い狭い。吸っていることは悪みたいな風潮です。でも、やめずに筋を通しているんだと自己擁護しています。
自閉症者地域生活支援センターなないろ 加藤 潔