加藤のコラム第109号
責任を持つ・感じる・取る
「責任」という言葉があります。ピリッとした空気を醸し出す言葉であり、けっしてゆるーい言葉ではありません。
Wikipediaにはこう書いています。「これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合にその行為自体や行為の結果に関して、対処する任務や義務の事」。
一方Katopediaでは、「責任」をこう説明しています。
責任は、「持つ」「感じる」「取る」の三つに大別され、番外編として「逃れる」「取らない」等がある。三つそれぞれで、責任の意味合いが微妙に異なってくる。
「責任を持つ」
すべきことに対し、誠実に努力すること。この場合の責任は、結果云々ではなく、問われるのは向き合い方そのもの。子どもであろうが大人であろうが、平社員だろうが社長であろうが、すべきことに対しては責任を持ってことにあたる姿勢が求められるのが成熟した社会であり組織と言える。
「責任を感じる」
すべきことに対しては責任を持ってことにあたるのが当然であるが、結果が出ないことがあるのも当然。一生懸命やったとしても結果につながらないとき、一生懸命やった人間であればあるほど苦しさを感じる。しかし、それは責められるべきものではない。言い換えれば、責任を感じることができるのは一生懸命にやった人間だけが味わえる特権である。
「責任を取る」
だれかが責任を取らなければならないとしたら、それができるのは、責任を取る分の対価としてその組織の中で最も高い報酬あるいは権力を得ている人物という図式がある。たとえばスポーツ界では、監督よりも選手の方が高い給与を得ている場合があるが、チーム成績が振るわない場合には指導者層の中で最も高い地位にある監督がその責任を負い、個人の成績不振の際には給与の高い人ほど責任を問われる声が多くなる。したがって、責任を取る立場にいない人間は、「責任を持つ」「責任を感じる」ことについて求められはしても、責任を取る行為をするのは図式外となる。ただし、責任を取る図式の中で、責任を取る立場にあるのにそれをしないのは、責任を逃れるとか責任を取らないということになり、世間から非難を浴びてしまう。ちなみに、責任の取り方には、その職を辞するという方法もあるが、そこに留まってひたすらのたうち回るという方法もある。
つまり、責任を持つのはどの人にも求められることであり、その結果が芳しくないときには責任を感じるのも人としてまっとうなこと。でも、責任を取るという行為ができる人間は限られているのだよということです。だから、「責任を取る」立場にないなら責任を取る必要はなくて、「責任を持って責任を感じて」いれば、十分に責任は果たしているということ、そして、所属メンバーがそれぞれに責任を持って責任を感じる人間であるならば、だれかが責任を取るという事態になってしまうことが防げるということでもあるとKatopediaは言いたいのでありましょう。
あれ? Katopedia自体、責任のない代物なので、そこからの引用をしているということは、このコラムの内容そのものが無責任きわまりない…。
自閉症者地域生活支援センターなないろ 加藤 潔