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加藤のコラム

加藤のコラム第163号

忠臣蔵

 

12月14日は「討ち入りの日」です。 1702年(元禄15年)のこの日、47人の赤穂浪士が江戸・本所松坂町にある吉良邸に討ち入りし、主君である浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の仇討ちを成し遂げました。

 

忠臣蔵が何のことだかさっぱりわからないという方のために、ちょっと解説。

 

この事件の発端は、1701年(元禄14年)3月14日、江戸城の大廊下で、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭が、高家(こうけ:江戸幕府における儀式や典礼を司る役職)の吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)に斬りかかったことにあります。

江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉(とくがわ つなよし)は、場所もわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し大激怒。そして、幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易(かいえき:領地や屋敷の没収)、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じました。それに対して、吉良上野介には一切の咎めはありませんでした。

 

自分たちの主君のみ刑に処せられたことに浅野家家臣たちは反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいし くらのすけ)を中心に対応を協議しましたが、浅野家再興の道はなく、主君の仇討ちのために吉良邸に討ち入ることを表明しました。

 

12月14日に吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった四十七士は、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供えた後、吉良邸討ち入りを幕府に報告。幕府の指示に従って全員切腹したというのが、忠臣蔵の概要です。

 

このお話は、過去に何度も映像化されておりますが、たいていは吉良さんが超嫌な人物で赤穂浪士が主君を思う正義の側として描かれております。吉良さんが本当に嫌な人だったかは存じ上げませんし(会ったことないし)、浅野さんだって感情を押さえ切れずに傷害罪を犯してしまったわけなので、藩主としてそのふるまいはどうだったのと言われたら弁解の余地はないかもしれません。それに、赤穂浪士の方々の中には名を売ってどこかの藩に就職したかった人もいるかもしれないし。ただ、仇討ちを堂々と表明した上で屋敷に討ち入っているのに、その途中でだれもじゃますることなくほぼフリーパスで屋敷に向かっているようなので、赤穂浪士が正義で吉良さんが悪という明確な構図を維持しておいたほうが都合のいい大きな力が裏で動いていた気がしないでもないです。まあ、あくまで素人の想像なので、そういう考証は歴史学者の方々にお任せいたします。

 

これが現代なら、週刊誌がいろいろなリークをして、それをワイドショーが連日取り上げるような話だったと思いますが、歴史上の多くのことは真相解明がなんとなくうやむやで、だからこそ歴史好きにはたまらないのでありましょう。でも、もし吉良さんが冤罪だったら気の毒でたまらない。世間から嫌な奴と思われることがとても多い加藤としては、なんとなく吉良さんに肩入れしたくなるのであります。

 

自閉症者地域生活支援センターなないろ  加藤 潔